菊池寛監修
日本英雄伝 村上格一

村上格一
明治37年4月3日博文館発行日露戦争実記第6編口絵
千代田艦は仁川の海戦に劈頭第一の奇捷を奏し功績偉大なり
     日露開戦の火蓋を切る
 日露のドス黒い妖雲を前にして、軍艦千代田は、明治36年9月頃より韓国警備の任に就いていたが、12月28日仁川に入港した時には、露艦はワリヤークのみ碇泊していたところ、その日入港した露艦コレーツは、故意か偶然か、ワリヤークの反対側に、即ち千代田を挟んで投錨し、公然威圧的の態度を執った。
 千代田は2400噸の小巡洋艦なるに対して、露国軍艦は、一は6500噸の巡洋艦、一は1200 噸の砲艦、一旦砲火を開かんか、千代田の苦境は火を見るよりも明かである。されば千代田の将士は、万一を慮って、死を覚悟して準備をしていたが、この時千代田に艦長たりし者、即ち海軍大佐村上格一であった。
 日露の風雲は急にして、何時大暴風雨とならんも測られなかったので、村上はかねて本国から、
『露艦に対しては我方から先きに敵対行為を執ってはならぬ。十分警戒せよ。』
 という訓令を受けていたので、乗員を慰諭訓戒し、事を誤らざるように努めていたが、併し37年の春を迎えた頃からは、雲行愈々急になったため、戦備をさをさ怠らざらしめた。即ち千代田は、毎夕軍事点呼後、一旦は砲門を閉鎖するが、暗くなるのを待って、密かに再びこれを開いて撃発の準備に置き、弾丸には信管を装置して、1発は装填さえして置いた。又魚雷にも実用頭部を取り付け、何時でも発射出来るようにして置いた。
 斯様な苦心裡にある2月5日に、日露国交断絶の報到り、次いで6日には村上は海軍大臣より左の意味の訓電に接した。曰く、
『8日午前8時、外べーカー島の南方に於いて、瓜生司令官の率いる第四戦隊と会合する如くに行動せよ。』
 と。8日は我連合艦隊の佐世保出港の日である。併し列国軍艦を目前にして、密かに港外に出ることは容易なことではない。村上は露国軍艦と一戦交えるの非常手段を決心して、その準備をしている時、又も海軍大臣より訓電を受けた。
『仁川港内において戦端を開くことは、国際問題を惹起する恐れある故、露艦より開戦せざるうちは、決して手を出してはならぬ。』
 極度に緊張しつつ2月7日を迎えたが、この日糧食その他の用達は、いつものごとくに続々として来艦したが、この15、6名の者を全部艦内に抑留して、その抑留を心配して問合せに来た者も、これまた直ちに抑留してしまった。
 午後11時、その抑留者を全部伝馬船で陸地に還らしめると同時に、静かに錨は揚げられ、11時55分、全速力で港外に脱出してしまった。かくて8日早朝瓜生艦隊と会し、今度は先頭となって、堂々と仁川に引返し、翌日はいよいよ仁川の海戦となったのである。
 この仁川脱出によって、村上格一の名は俄然国民の頭に刻みつけられたのであった。

     日露戦争までの行路
 村上は文久2年(1862)11月1日、佐賀藩に生れ、幼名を袈裟之助と称した。明治7年の佐賀の乱には、父は同藩の鍋島幹が栃木縣令として任地に赴くや、これに従って栃木に行っていて、彼は13歳にして母と共に国に残っていたが、『旧士族にして新政府に仕えて任地に在る者の家族の男子は、これを殺戮する。』という流言が行われたので、彼は母と共に遠く田舎へ避難した。
 翌8年東京に上り、更に父の任地なる栃木に赴き、そこの栃木医学校の予備科に入り、主として英語を習った。11年に再び東京に出て、攻玉社に通学して勉強し、13年に海軍兵学校に入学し兵学校は当時東京の築地に在った。
 明治17年12月、兵学校を卒業したが、首席は夭折した二木勇次郎であって、彼は第2位であった。同級者にして大将たりし者は彼以外にはない。19年に海軍少尉任官、26年には新造艦吉野の回航員として英国に行き、直ちに吉野の水雷長に補せられた。9月吉野竣工するに及び、日本に回航したが、そのまま日清戦争を迎えた。
 吉野は4200噸の当時における最新最鋭の巡洋艦、豊島沖の海戦に先ず日清戦役の火蓋を切ったが、彼はよくよく海軍の緒戦に縁があると見える。その後黄海、旅順、威海衛の諸海戦に参加して功があったが、戦争の終わるに先だち、28年3月、海軍大臣西郷從道の秘書官兼副官となって内地に戻った。
 明治30年6月、フランス留学を仰付けられた。海外留学生派遣は、日清戦争のため中絶していたのであったが、戦後再び俊材を選んで欧米へ派遣したのであって、この時彼の外にこの選に当った者は、ドイツには日露戦争の際、第3回閉塞隊司令官たりし林三子雄(みねお)、ロシヤには第2回閉塞の壮挙に戦死し、軍神といわれた広瀬武夫、イギリスには後年の海軍大将財部彪(たからべひょう)、米国には日露戦争の際、聯合艦隊参謀として帷幄(いあく)の重任にあたった秋山真之(さねゆき)であった。
 村上の仏国に在るや、欧州各地を廻って海軍軍事を研究したが、殊に伝書鳩に注目して、これを調査し、我が海軍に輸入するの素地を作った。
 33年8月に帰朝し、直ちに常備艦隊参謀に補せられ、次いで横須賀鎮守府副官、鎮遠副長を経て、36年7月に中佐をもって千代田の艦長に栄転し、同年9月大佐にのぼり、かくて千載一遇の日露戦争に遭遇したのである。

     日露戦争における勲功
 日露海戦の緒戦たる仁川の海戦に就いては先に述べたが、その海戦に勝利を得て、2月11日に千代田は独り仁川港内に碇泊していたが、この時艦長たる彼は、港内碇泊中の列国の軍艦に要求して曰く、
『本日は我紀元の佳節である。もはや戦時中であるから、満艦飾の代りに艦飾ををなし、正午には皇礼砲を放たれたい。』
 と。正午になるや、折しも入港した千早と共に皇礼砲を発し、列国の諸艦これに倣った。時は開戦当初の紀元節、所は緒戦に勝てる仁川港、列国軍艦に堂々通報して我紀元節を祝して皇礼砲を放たしめた村上の処置は、内外の賞嘆して已まざるところであった。
 日露戦争の第1期戦には、彼は千代田の艦長として、第3艦隊に属し、朝鮮海峡の警備、上陸部隊の掩護、旅順封鎖等に当って、功を立てた。第2期戦には吾妻の艦長に転じ、第2艦隊に属して、日本海海戦に参加した。同海戦後には第3艦隊に属して北航し、我が樺太派遣軍の樺太攻略を護衛した。
 その8月、講和に先だち教育本部第1部長に転じて凱旋した。戦後戦功に依り功3級金鵄勲章を賜った。

     海軍大臣になるまで
 戦後の彼は、暫くは順風に帆をあげた形であった。即ち39年4月には海軍省高級副官、少将になるや、教育本部に戻って第1部長兼第2部長、次いで艦政本部第1部長に転ぜられて、教育本部第1第2部長を兼任した。一人にして教育及び艦政両方面の部長の3椅子を占めた等は稀しい例であるが、彼の手腕が推察されるのである。そして彼は兵器の充実発達に、大なる功績をあげたのであった。
 大正元年12月には中将の昇って呉海軍工廠長となったが、ここで端なくも起ったのがかのシーメンス事件であって、久しく艦政本部の要職にあった彼は、疑惑を受け、3月には家宅捜索まで受けたが併し何等不正の事実なく、却ってその5月には、艦政本部長に補せられて、再び艦政本部に戻った。
 大正4年11月に海軍技術本部長に転じたが、12月には更に第3艦隊司令長官、6年4月には教育本部長、7年に大将に昇り、8年には呉鎮守府司令長官、11年に軍事参議官として待機の状態に入ったが、13年1月、清浦内閣出現するに及び、入って海軍大臣の椅子に就いた。併し在職僅かに5ヶ月、清浦内閣は瓦解し、彼は軍事参議官に転じた。時に彼既に病を得ていたので、その12月に予備役に編入された。

     彼の人となりを語る逸話
 明治43年巡洋戦艦金剛をイギリスに注文する際、その主砲を12インチ砲とすべきか、14インチ砲にすべきかに就いて論議があったが、彼は時の海軍次官財部彪と共に、断固14インチ砲を主張して、遂に部内の論を一決せしめたが、金剛の14インチ砲は、当時の列国海軍を驚かしたものであった。
 大正12年、関東大震災の時、彼は逗子に在ったが、町民が交通杜絶して食糧に苦しむや、彼は横須賀鎮守府に中将上泉徳弥を派して食糧の配給を請い、ために1万幾1000の逗子町民を飢餓より救ったのであった。
 大正15年12月、大正天皇御悩重くならせらるるや、彼は病躯を推して、毎朝逗子の八幡神社に額ずいて御平癒を祈り奉るの忠誠ぶりを示し、町民に対し無言の教訓を与えた。
 かかる無理から彼の病勢を進めたものか、昭和2年(1927)11月15日をもって、逗子に歿した。享年66であった。