1994.06.14日刊新周南
●徳山● 村井喜右衛門が尊敬した力持ち
市兵衛は櫛ケ浜に残る古文書によると、藩制時代の寛政11年(1799)に長崎港で大シケのため難破して浸水したオランダ船を独自の工法で引き揚げたことで知られる櫛ケ浜の村井喜右衛門の大叔父。 人並みはずれて小柄で、これを悔しく思った市兵衛は、弘法大師の遺跡があって、願いのかなわないものはないとされた白石島の開龍寺に21日間こもり、願いかなって、750キロもある大石を抱え上げられるようになり、そのお礼に100本の杉を植えたとされ、今も数本が残っているという。 この話は岡山県では「市郎兵衛の力石」と言う伝説で残っており、開龍寺の力石のそばには「周防三田尻ノ船頭一郎兵衛ガ弘法大師の御霊力ニヨリ、コノ大石を持チ上ゲタリ」という看板が掲げられている。 白石島、櫛ケ浜で共通しているのは、大力ぶりを各地で発揮し、大船の帆柱を抜いて振り回したなどの話。 櫛浜郷土史会は、白石島の市郎兵衛は櫛ケ浜の市兵衛と同じ人物と見て、昨年5月、白石島を訪れ、笠岡市の山本稔市史編纂室長や天野さんらの案内で力石などを見学した。 櫛浜郷土史会が案内 今回は、白石島側から市兵衛の墓をぜひ見学したいという申し出があり、この日の訪問になったもので、櫛ケ浜側の13人の出迎えを受けた一行は原江寺で会員の竹嶋美雅さんから、村井喜右衛門のオランダ船引き揚げと、喜右衛門が大叔父の市兵衛について「おじの名は海内無双の力で天下後世に伝わっており、自分は智計工夫でおじのあとに続こう」と尊敬していたことなどを説明。市兵衛が櫛ケ浜の浦を盛んにした原動力になった人であることを豊富な史料をもとに解説した。
ただ、白石島の市郎兵衛が「三田尻」としたのは「櫛ケ浜が小さい漁村であることを恥じたため」と言う解釈がされているが、天和年間(1681〜1684)に白石島を訪れたことになっているのに対して、徳山の史料では市兵衛は元禄9年(1696)に誕生したことになって、約30年の差がある。 浅田さんは「同じような時代に力持ちの内容がほぼ同じ人物が2人あたっとは考えられないし、同一人物に違いない」と期待をこめて話し、竹嶋さんも「喜右衛門があれだけ尊敬した市兵衛は櫛ケ浜が盛んになった原動力。大いに顕彰したい」と白石島の一行に史料を紹介しながら話していた。 その他、大師様霊験の一端 市郎兵衛力石献納のこと
夜にまぎれて山に登り大師様に願をかけ10人力をさずけて下さいと一心に拝み、夜を徹して百度詣りをしました。帰途意外な所に大石がありましたので、不思議に思って動かしてみたところ、軽々と動きましたので大いに喜び、船に帰りいざ勝負という時に、200石積の帆柱を振りまわしたので近よるものがありませんでした。 当時の庄屋小見山六郎左衛門が仲裁にはいり事ずみになりましたと申します。 市郎兵衛はお大師様に御礼として松千本、杉千本、桧千本を植えました。現在寺の前に並んで居る老杉はその遺物であると申します。またとりのけた大石もあります。 (日本標準発行) 市郎兵衛の力石 ―笠岡市白石島―
今から200年ほどむかし、周防の国三田尻(山口県防府市)の船頭、市郎兵衛の船が、笠岡の沖合いであらしにあい、いつものように白石島の港に難をさけ、風の静まるのを待っていた。 そのあとへ、西国(肥後)の参勤交代の大名を乗せた千石船が、同じように難をさけて、白石島の港へ入り、いかりをおろそうとした。港の中といっても、風がふき潮も動く。大名の船は、市郎兵衛の船により当たりをしてしまった。船のより当たりは、武士のさや当てと同じく、当てたほうに無礼があるとされていた。港の中では、先に入っていた船のほうに権利があり、あとから入った船は、先の船をよけてとまるのがしきたりである。 千石船のほうがわびればよいものを、かえって、じゃまだとかなんだとかもんくを言ったからたまらない。市郎兵衛は腹をたてて、千石船にどなりこんでいった。 ところが、相手は大名の船。 「おまえのほうこそ、じゃまな所へ船をとめていなければ、当たったりはせんわい。」 と、むりおしをする。あげくのはては、大ぜいの家来たちの手をかりた水夫たちに、たたきのめされてしまった。
市郎兵衛は、さっそく島の開竜寺の大師堂(弘法大師をまつっている)にこもって、 「どうか、あの大名の船に勝てるように、千人力をおさずけください。」 と、夜どおし、一心不乱においのりした。すると、夜明け方、まぼろしのようにお大師さまが現れて、 「おまえの望みをかなえてあげよう。」 とつげた。はっとした市郎兵衛は、 「なむだいし、へんじょうこんごう。ありがとうございます。なむだいし、へんじょうこんごう。」 と、お礼を言って、すっくと立ち上がった。すると、なんだかからだじゅう、もりもりと力があふれる思いがする。
「ああ、ありがたい。お大師さまが、ほんとうに千人力をさずけてくださったのだ。これならば、あの大名の船に負ける心配はないわい。」 と、港へ引きかえして、また、大名の船に乗りこんでいった。 「やい。きのうの話のかたをつけてもらおう。」 「ばかなやつだ。まだ、こりないとみえる。それ、今度こそやっつけてしまえ。」 市郎兵衛は、とびかかってくる大名の家来や水夫たちを、かたっぱしから投げとばした。そして、千石船の帆柱に手をかけたかと思うと、 「えい、やっ。」
「わしの船が悪かった。これ、このとおりあやまる。」 と手をついて市郎兵衛に頭を下げた。そして、ほうほうのていで、千石船は港を出ていった。 その後、市郎兵衛は、このように強い力をさずけてくださったお大師さまに、お礼をしなければと考え、参道に、スギ千本とマツ千本を植えた。そして、ますますお大師さまを信仰して、おいのりをかかさなかったという。 市郎兵衛が、目よりも高くさし上げた大石は、今でも開竜寺の境内に、「市郎兵衛の力石」として、残っており、お礼に植えたスギやマツの何本かが、「千年スギ」「千年マツ」と呼ばれて、今でもおいしげっている。
満願の夜、夢に神翁が現れ、市兵衛に「一倍力」の神力を授けた。市兵衛は狂喜して巨石を持ちあげ、その石に自分の名を刻んだ。またお礼に杉樹一千本をその島の神域に植えた。その樹は今日も白石島に高く茂っているという。
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