防長新聞明治21年9月15日第1056号土曜日 地外居士稿 第1回 徳川幕府の始め、耶蘇教の禁厳にしてスペイン・ポルトガル両国の商船は我国に来ることを差し止めらる。 しかるにオランダ人は寛永14年より15年にめぐりたる島原の役に、大砲を提供せし功により、幕府は特に許して出島に寄留せしめ、長崎をもって交易場とせり。これ実に徳川第三代将軍家光公の代、すなわち寛永辛巳18年(1641)という歳にて、今を去る殆ど250年前なり。これより我国と蘭国の交易はその端緒を開き、その取引は年々に繁しくて、ようやく長崎港の基礎をなしたるのみならず、我国今日泰西の文明はその曙光をここにて発揮し、識者の注目する地となりぬ。 開港後150年にして第十代将軍家齊公の代、すなわち寛政戊午10年(1798)の歳6月下旬にいたり、蘭の商船長崎港に入り来り。彼我の取引あいととのい、利潤も案外に多かりしかば、船長スチュアート以下水夫にいたるまで長崎の花や長崎の月に財用の費をいとわず、いと珍しく興ありげに一日二日と過ごすほどに、流るゝ月日に淀みなければ早や10月の中葉になりぬ。されば皆々同じ月の17日の夜半を期して同港を出帆し、神崎脇へ向かうと決心したりしに、同港に寄留の蘭人はこれを聞きて同夜離別の宴を張り、再会を期して陸と海とにあい別れたり。あい別れし時は風順に波穏やかなりしかば、直ちに出帆するつもりにて暫時休息せしが、逆風にわかに起りて天を覆いしかば、蘭船はたちまち高鉾脇唐人瀬という所へ打上げたり。巨濤引続いて来たり覆船の恐れあり。 さてこの船の長さ23間・幅6間・高さ6間・量目250万斤にて石数は8000石積なり。柱長さ14丈余・帆数18片・籏棹3丈余・石砲36挺を備えて、乗客は乗組員を合せて90人なり。今やこの船はかかる大きさの上に多人数を載せて、かかる危難に際してはいかでか安全なるべき。すなわち乗組員は大帆柱3本を倒し、ポンプ2挺にて水を出したるも危難はさらに減ずるさまも見えざりけり。船中の人々兎やせん角やせんと甲論し乙駁するところに、一人出でて声高らかに船長スチュアートに向いて言えるよう。我は急ぎ長崎蘭館へ事の次第を注進して、加勢を請わんと。諸人誰かと見れば、蘭人ウウノスとて、このたび7年目に本国へ帰省するものなり。船長もっともとこれに応じたれば、船中の人々も、しかりしかりこれに越す妙計はあらず、と感服せぬはなかりけり。 かくてウウノスはバツテラに乗り移り、番船役人町役成田繁次・杉山勘四郎の両人を呼び起こし、これと共に大波戸場(長崎上がり端にて海程およそ2里)より上陸し、蘭館にいたりて表門をしきりに叩きこれを開かしめ、当直横瀬九左衛門通詞本木庄左衛門の両人へ事の急なる次第を申し出で、長官ラス氏への取次を請いたり。ラス氏はこれを聞きてこはただ事ならずと思い、通詞岩瀬弥十郎・塩谷庄次郎・品川作大夫の3人及び蘭人レツテキ・ポヘットの2人をウウノスに従わしめ、鯨船に乗り移り高鉾脇なる蘭船へと急がしめたりき。 しかるに大厦の崩るゝや一木の能く支えるべきにあらざるとや思いけん。ポヘットは岩瀬を連れて再び上陸して、荷漕ぎ船9艘を借り請け奉行所役員三原市十郎なる者と共に引き返し来れり。 奉行所の命令により、救難に従事せし9艘は左のごとし。 大坂の小新丸(23反帆900石積)加賀の清徳丸(15反帆350石積)及び幸吉丸(15反帆430石積) 小豆島の栄宝丸(7反帆220石積)長州の大黒丸(5反帆130石積)大村の大黒丸(7反帆50石積) 久米丸(11反帆120石積)及び宮市丸(9反帆70石積)島原の住福丸(15反帆300石積)これなり。 また成田・塩谷・品川の3人は番所へいたり難船のよしを申し立てて、木鉢浦・小瀬戸浦辺の漁船十数艘を借り請け、海陸取締方竹内弥十郎・隠密方松本忠次・盗賊方卯野熊之丞3人は水主を連れて来たり、救助に従事したれば、荷漕ぎ船はこれに力を得て蘭船の貨物を移し替え、木鉢浦まで引き寄せけり。これにて蘭船の覆る憂いは免れたれども、今やまたまさに沈没せんとするの憂い生じ来たりたれば、船中の狼狽言わん方なかりし。 このよし奉行所へ聞えければ、検使熊谷与十郎・長谷川武左衛門その外通詞は夜中にも拘わらず神崎まで飛船にて漕ぎ付けるが、風波激烈にして近寄ること難く、各々翌朝六ツ時に蘭船へ近づくことを得て、数艘の引船にて怠慢なく八ツ時には木鉢浦土生田浜へ引き寄せたり。船中90人の人々始めて安堵の思いをなし、無事に上陸したるこそ不幸中の幸いと申すべけれ。かくて蘭船は19日朝辰の刻というに沈没したり。当時土生田浜の海底を測量せしに、一丈三尺余に達したるの泥海なりという。 しかして蘭船の沈没に至りし次第は観客次回に説くところを見て了解したまえ。 防長新聞明治21年9月16日第1057号日曜日 地外居士稿 第2回 前回の末に説きし沈没の原因はいかにぞというに、そもそもこの蘭船の構造たる周囲には銅鉄をもって嵌め込みて、船底破裂の憂いはさらにこれなしといえども、この船を新造せしよりおよそ120年余の星霜を閲したるの古船なれば、船底磨削してその間に間隙あい生じ、潮はこれより潜入して水次第に充満せしかば、終に沈没するの悲況に陥りぬ。 本文に新造よりおよそ120年余云々とあれども、余りに古くして疑いあるがごとし。すなわち120年前は西暦1598年にして我慶長3年豊太閤薨去(こうきょ)の年にあたる。そもそも1497年我足利義澄の時、明応6年にポルトガル人バスコ・デ・ガマといえる航海者が喜望峰を巡りインドに達せしより、東西両洋の交通たちまちに開通して、今までイタリア人の掌握せし東洋との陸上貿易の権は日々に減じ、昔は商隊を組み沙漠を経て交通したりし風雅なる交易は今は見るも稀なり。これに反して海上貿易は日々に栄えて1510年足利義植の時、永正7年にはインドのボンベイ港より西南にあたりて250英里の所にゴー島にある同じ名の市街はポルトガル領地の主府とせられたり。かくて東洋の商権はポルトガル人の掌中に帰したりしに1580年我織田信長の時、天正8年にはポルトガルとスペインとは連合したるに連れて、これより東洋の商権は再変してスペインの掌中に帰したり。これ支那にては明代の末、武宗・世宗の頃にあたりて、現に神宗の時にはゼスイト宗門の宣教師は支那に入りたり。日本にては天文12年(1543)足利義晴の時、ポルトガル人種子島に来たりたるを始めとす。天正12年(1584)豊後守大友宗鱗は使者をローマ法王のもとに送れり。カステラ菓子の製造はこの時に始まりて、スペインの都府カスチールの訛りしものなり。しかりしこうしてスペイン人の圧制はオランダ人をして反せしめたり。これにおいてや、東洋の商権三変してオランダ人の掌中に帰したり。 新阿蘭陀柄コ−ヒ−カップ(徳山きえもん会寄贈) これ実に16世紀の末なりき。すなわち1619年我徳川秀忠の時、元和5年にはオランダ人はジャバ島においてバタビアという市街を建設したり。この年にオランダ人はポルトガル人の有せし日本との貿易の権を奪い取れりという。 新きえもんコレクション コーヒーカップ これによりこれを観れば、この蘭船は日蘭両国貿易の始めて開けし前、すでに存在せしものというべし。余りに古きに過ぎて、少しく信じ難きに似たりといえども、蛮喜和合楽に載せしことゆえ、本文にこれを掲げたりといえども、オランダ人の東洋における貿易の紀元を見て、読者よろしく判断したまうべし。 (注)「120年前は西暦1598年」云々は明らかに計算間違いなれど敢てそのままにおく。 防長新聞明治21年9月18日第1058号火曜日 地外居士稿 第3回 人夫を雇いて数多荷物を揚げしめらるも、銅数万斤はさらに揚ぐること能わず。船長以下ほとんど困し果て、詮術(やりかた、方法)のなきままに打ち捨ておかんも、断念するに忍ばざりければ、10月21日には紅毛通詞すなわち和蘭訳官、出島乙名の名をもって、左のごとく世間へ広告せられたり。 きえもんコレクション阿蘭陀柄コ−ヒ−濾し 紅毛船難船に及び、木鉢浦浜手に引き寄せこれあり、垢多く差込み 過半沈船にあい成り 殊に下積み銅も多くこれあり候 右差し水繰り上げ、銅取上げ方等便利の手段存じ寄りの者は、申し出ずべし これを見て諸人一功を立てゝ恩賞にあずからんとて、我も我もと水練のものは力を協わせて大勢引き上ぐるも、沈没したる蘭船は依然として動くべく様も見えざりければ、人々歎息の外なかりけり。ことにこの頃は寒気日に烈しく、あるいは病みあるいは溺れ誰とて好手段を申し出ずるものなければ、奉行所にては日々評議紛々たり。 かかるところに10月29日というに、村井喜右衛門といえるものその弟亀次郎並びに同輩20人の者と共に、沈没の蘭船を見物せんとてここに出て来れり。番船の者一行に告げて言えるよう。この沈没船を浮揚する者あらば相当の賞に預かり、その身の高名手柄これに過ぐるものあるべからず、諸子考一考せられよ、千載の一快事機失すべからず、と。喜右衛門実にもと同じたり。心密かに我家の繁昌、我身の高名この時なりと思えば思うほど感慨いや増さりて、すなわち官吏の許可を得て詳細に検分し終り。やがてその募に応ずべきを申し出でたりしかば、蘭館は申すに及ばず奉行所にての喜びの声、しばし鳴りも止まざりしという。 そもそもこの喜右衛門といえるはいかなる人にやというに、生国は防州都濃郡櫛ケ浜村にて職業は商船業なり。宗門は禅宗にて当年48歳なり。年来干鰯を商買し、肥前領香焼島に漁場を構え毎年西漁丸とて400石積18反帆というに7、8人の乗組員と共に8月頃に来たり翌5月頃まで滞在し、その弟亀次郎も西吉丸とて200石積13反帆というに乗組みて、兄弟同伴にて往復するを常とせしかば、長崎近辺の潮の満干、海の浅深、風の強弱等、いやしくも航海者の知るべき事は知らずということなし。また近浦近島の漁夫には資本金を毎年貨して干鰯にて取立つるの返債法を施せしかば、皆その恩とその便を感じ喜右衛門は漁夫社会の王と仰がれしほどにて、これがために生計を営むものその数少なからざれば、今やこれ等の手下を使役するにおいては海上の事なして仕遂げぬ事はあらじと聞えし。 この時喜右衛門は香焼島に別宅を構えておりしが、明治の今日にいたるまでその子孫繁栄して村井家の勢力は同島にては頗る強大なりという。また喜右衛門は生地櫛ケ浜村にては家を二つに分ち、弟亀次郎は村井を冒し、亀次郎死して長男市左衛門つぎ、商船業を止め造酒業を始む。市左衛門死して長男吉右衛門つぎ、吉右衛門の長男はすなわち現今の主人市郎氏にて、今は一家のためには造酒の一方にのみ精力を尽くして、改良に改良を加え今年はその功著しく現われ、「松の友」といえば誰知らぬ者なきほどの銘酒にて、近国には未だこのごとくに化学上より改良の功を奏せし造酒家あらじと聞えし。 また一方にては社会公衆のためとして村会議員に撰まれ、県会議員に挙げられて重任を負担するの身となれり。これはこれ市郎氏の才智人望のしからしむるところのものなりといえども、あにまた遠くは喜右衛門・亀次郎兄弟の積善の輪回応報のしからしむるものなきをえんや。一善を行うときは必ず一善の果報あり。また一悪を行うときは必ず一悪の果報なきをえず。善悪の応報はあたかも環の輪(めぐ)るがごときものなり。 しかりしこうして喜右衛門の事業はこの書の眼目なれば、次回において詳細に説き尽すべし。 防長新聞明治21年9月19日第1059号水曜日 地外居士稿 第4回 喜右衛門再拝して曰く、まず船底を留上げ汐を出ししかる後、着手するを順序とすと。鈴木殿は詳細なる見積書を差出すべきを、またもや言われ候につき、喜右衛門が早速に認め出せる書の大要は船数200箇を使用し、蘭船より丈夫なる縄を借り受け、その他苧縄(麻縄)檜縄材木明き四斗樽土俵明き俵等を要するなりというにあり。鈴木殿は滞りなくこのむねを蘭館へ復命せられたり。 とかくするほどに早や11月の月も暮れて、12月になりぬ。その29日にいたり蘭館より達し来たれる書面を見れば、蘭館の官吏喜右衛門の旅宿にいたり談判いたすべき筈なれども、多人数のことゆえ却って迷惑なるべければ、蘭館へ出頭のほど頼み入るとのことなり。喜右衛門は頗る得意の顔色にて、紅毛新屋敷すなわち蘭館へいたりしに、長官ラス氏を始めとし蘭船長スチュアート氏以下、ことごとく着席し種々談話これあり候うえ、談判全く局(かぎり)を告げ、喜右衛門は左のごとく請け書差出して退出したり。 このたび阿蘭陀沈船浮方の儀、私存じ寄り申し立て候通り御請け合い仕るべく候 なお各々様より諸雑費入用等の御尋ねも御座候ところ 決してその儀にはあい拘わらず 万一私手内にて差し支え候たりとも御加勢金請け申し間敷 よって御請け状差し上げおき申すところ件のごとし 午12月 村井喜屋右衛門 判 茂伝之進殿 三島良吉殿 塩谷次郎殿 かくて蘭館にてはいよいよ喜右衛門一人に沈船浮揚の一挙をあい托し、自他共に承諾せる以上は奉行所への照会一日も猶予すべからざるにより、喜右衛門の請け書を添えて右の談判の次第を申し入れ、該人へ許可せらるべきむねを依頼したり。すなわち奉行所にては寛政11年正月4日をもって、喜右衛門へ出頭すべきよしを申し達したり。 喜右衛門は奉行所へいたりて、蘭館長官ラス氏蘭船長スチュアート氏等と談判の次第を申し立てたるの後、奉行朝比奈河内守殿は、しからばそれにて可なりと言いて、喜右衛門に書付を渡したり。喜右衛門再拝開き見ればすなわち左のごとし。 このたび沖阿蘭陀沈船浮方の儀、防州村井喜右衛門へ相対をもって あい頼みたきむね、役人阿蘭陀人よりも申し出候につき願いの通り聞き届け候 もっとも浮方取懸り候わば御用小指しあい用い候儀差し免じ候こと 未の正月 奉行 判 防長新聞明治21年9月20日第1060号木曜日 地外居士稿 第5回 さるほどに喜右衛門は奉行朝比奈河内守殿の許可を得たれば、限り無く喜び早速に夜を日に続いて準備をなし、いよいよ正月17日には着手することとなりたり。これよりは喜右衛門いかなる道具を用い、いかなる結果を得しやを詳らかに記すべし。 17日より20日までの4日間は人数1000人・船数150艘(但し船別およそ60石積)にて諸道具の配置を始めたり。諸道具は左のごとし。 蘭船より縄6房(房ごとの重量およそ8000斤)を借受け沈船周囲を緊着したり。但し縄の長さ150間太さ2尺1寸なり。 また他の器具は左のごとし。 〈品種〉 〈品数〉 〈大きさ又は用法〉 大柱 4本 長13尋・太6尺 同 40本 長8間・太5、6尺 杉柱 240本 長6尋・太1尺6、7寸 杉板 10枚 長6尋・幅5尺・厚8寸 同 36枚 長6尋・幅3尺・厚4寸 杉柱 80本 長6間・太5尺 杉丸太 1000本 長8尋 同 600本 長2間ないし3間 松 24本 長2間・幅1尺5寸・厚8寸 桶板 24本 幅1錫寸・厚4寸 杉板 24本 長4間・厚3寸 大竹 600本 太2、3寸 苧縄(麻縄) 200本 檜縄市皮縄 400本 4斗入り明き樽 500挺 周囲の浮きに用いる 同 200挺 船中の汐取除きに用いる 土俵 4000俵 船左右の水底へ柱立入れ用 大束5尺〆(薪) 3000把 松明に用いる 南蛮車(ナンバ・滑車)1800余 大小・巻道具に用いる 同じく21日には人数400人に減じ船数150艘とし、22日より29日までは昼夜を分たず大出精にて、前日のごとく諸道具の配置を取急ぎ、2月1日よりは浮け方に着手し、実功を奏することとはなりぬ。すなわち左のごとし。 日別 記事 2月1日 沈船およそ3尺ばかり上がりたり 2日 奉行より浮け初めの祝いとして酒1挺・肴1折頂戴せり。 3日 この両日は人数850人・船150艘を用いて6尺余上がり(都合9尺余上がる) すなわち150艘にて沈船を釣り揚げ阿蘭陀新屋敷の下まで持ち行けり。 この間10町余りなり。 4日 人数600人・船数同断にて3尺余上がりたり。 5日 人数400人・船数同断にて7尺余上がりたり。この日蘭人より祝いとして 奉行所の手を経て酒2挺・肴1折を受く。 6日 人数200人・船40艘にておよそ8歩上がりたるにつき蘭人多く作事に取掛れり。 7日より 人数300人・船数120、130艘宛を用いたりしに17日にはおよそ1丈ばかり上がり 17日まで たり。赤銅100斤入り340箱・樟脳若干箱その外薬種若干箱上がる。 18日 人数船数同断にて薬種類数多揚る。 19日 多人数にて諸道具仕舞いたりき。 きえもんコレクション阿蘭陀柄そばちょこ かく1ケ月余の時日を経て、沈没して頼り少なく見えたる蘭船は汐干潟まで揚げやりたれば、船底までも自由に作事することを得て、見る人ごとに誰か驚愕せざるものあらんや。実に蘭人は雀躍したる不勝の歓びに、村井を神とし拝して感涙そぞろに落つるを覚えざりしというも中々愚かなり。 防長新聞明治21年9月21日第1061号金曜日 地外居士稿 第6回 かくて村井喜右衛門の尽力はついに沈船を引揚げ局(かぎり)を結びしかば、諸人争い集りてこれを見れば船底の形状たる、あたかも一鉄城のごとく100有余日泥中に埋没しありしも少しの瑕瑾(傷・瑾は美しい玉)を見ず。ただ船底に数点の星ほどなる間隙ありしのみ。しかしながらこの間隙こそ蘭船沈没の原因となりしものにぞある。恐ろしさのいたりなり。歎かわしさのいたりなり。 前回2月6日の記事欄内に記せしごとく、蘭人は作事に取掛かりしが難船の折柄切り崩せし帆柱を立替えんとするに、良材なければ思按に暮れ果てたり。肥前侯これを聞き通詞本木庄左衛門を紹介として、松木10本賜われたり。(左表を見よ)蘭人感謝して頂戴したり。これより我国の工人も蘭人と共に立働きて修復をなせしに、帆柱なおも不足して歎息する中、長崎禅院晧台寺の山は森々たる茂林にて日を洩らさずとの人の噂を聞きつけ、その中より杉木3本(左表を見よ)を請い受けて5月中旬に修繕完結し同月23日に高鉾脇へ浮け、帰国せんとて別杯を酌み終り順風に任せて出帆したるぞめでたけれ。 〈品種〉 〈数〉 〈長さ〉 〈周囲〉 松 1 10間 1丈 同 1 10間 6尺5寸 同 1 9間 6尺7寸 同 1 8間 5尺 同 1 7間 7尺 同 1 7間 6尺7寸 同 1 7間 6尺 同 1 7間 5尺 同 1 5間 6尺 同 1 5間 5尺 杉 1 13間余 1丈 同 1 13間余 9尺 同 1 13間余 7尺 合計13本 (注)晧台寺文書「寺内大樟樹を米船修繕のため供給す」 寛政11年16代元如は当寺内大樟樹(最大なるは径5尺長8間)3本をアメリカ人ウイリアム・ロバート・スチュアート(William Robert Stewart)に与えた。すなわち同10年10月17日アメリカ船(The Eliza of New York)が高鉾島付近にて難破せしをもって、その船体修理のために供給したのである。米人等は深くこれを徳とし、じ後渡来やむまで砂糖1俵宛を当寺に贈った。(長崎市史地誌編) 海雲山普昭晧台寺 村井喜右衛門は沈船浮揚の功を立て暫く崎陽へ滞在せしが、同じ年の2月21日に長崎奉行所より出頭の命あり、喜右衛門は心密かに思うよう。我すでに我が目的をおえたり。奉行所より召さるべき次第別にこれなし、呼出しの次第心得難し、また何事の生ぜしやと、合点ゆかねど官の命令背くべきにあらねば、胸に問い胸に答えつゝ何気なき体にて出頭せしに、早速左の書付を渡さる。喜右衛門再拝開きこれを見れば、 防州都濃郡 船頭 村井喜右衛門 その方儀、沖紅毛沈船浮け方の儀、紅毛人よりあい頼み候ところ、差しはまり出精いたし、殊に自分入用をもって早速浮船にあい成り、修理にも取掛かり候段、誠に抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず、当所一統安心満足のことに候、よって褒美として銀30枚これを取らせ候 未2月 とあり。元来喜右衛門は自費をもって忠君愛国の誠心を顕わさんとするの精神なれば、銀子30枚は辞してさらに受けず。奉行所にては朝比奈河内守殿を始め再三、これこのたびの費用を支払うためにあらず。ただ汝の非常の功労に対し寸志の誠を表するのみなりと申されければ、喜右衛門も遂に受け納めて退出せり。明くれば22日、また蘭人よりも酒入りフラスコ14本、奉行所の手を経て送り来る。喜右衛門受け納めたり。 その後年々防州櫛ケ浜の村井家へ宛、幕府及び長州公の手を経て砂糖若干箱を送り来りしという。これまた蘭人の誠なり。これにつきて面白き談あり。この砂糖の村井家に達するまでには着船より2年も後れ来り。手続きを経るごとに砂糖若干量を失い、実際村井家の手に入るものは2、3斤の少なきに減せしという。もって当時の施政方略いかんを察すべし。 閑話休題、喜右衛門は同じ月の24日には大通詞4人、すなわち加福安次郎殿・石橋助左衛門殿・中山作三郎殿・名村多吉郎殿より饗応に預かり、3月12日には帰国の願書を奉行所へ差出し許可を得て早速櫛ケ浜に帰りたるに、かねてこの事の同村に聞えしと見えて海岸には近所近辺より老若男女群れをなして迎えたるぞ、本人は言うもさらなり、村井家の面目、櫛ケ浜の名誉というべけれ。 防長新聞明治21年9月22日第1062号土曜日 地外居士稿 第7回 (大尾) 喜右衛門は家に帰りてあい変らず家業を励み、一つも近隣に誇ることなくただ質朴に世を送りしに、長州侯より永代苗字帯刀差免せられたることあり。これは喜右衛門の長崎における功労を賞せられたるものにてその書付は左のごとし。 都濃郡櫛ケ浜浦 宍戸美濃殿知行所 百姓 喜右衛門 右はさる秋帰帆の阿蘭陀船長崎沖浦上村木鉢郷にて沈船あい成り候につき、浮け方の儀長崎奉行所において種々仰せつけられもこれあり候え共浮け方出来かね候ところ、その砌(みぎり)喜右衛門こと彼の地商売方につき参り合せ候て、紅毛人よりあい頼み、喜右衛門心遣いをもって浮け方あい成り候、紅毛人は申すに及ばず、長崎表一統安心満足のよし、これにより御奉行朝比奈河内守殿御役所へ召し呼ばれ、御褒美として銀30枚下され候よし、河内守殿より彼の者抜群の手柄仕り候段御知らせ申し来り候、肝要の場所において比類なき手柄せしめ、神妙のいたりに候、これにより格別の御沙汰をもって永代苗字帯刀共差し免ぜられ候條、この段御申し渡しあるべく候、以上 寛政11未ノ3月 矢島作右衛門 判 山崎新八殿 付言 矢島作右衛門殿は長州萩の政府にて顕要の地位を占めたる官吏にて、山崎新八殿は長州侯の郡に派遣せるの代官なり。 宍戸侯よりも裃を下賜せられ、また宍戸侯の領分中にて百姓惣筆頭に差置かれたり。これまた沈船浮け方首尾善くあい終えたるに帰するものなり。その書付左のごとし。 都濃郡櫛ケ浜村 百姓 村井喜右衛門 その方儀、今般長崎において紅毛沈船浮け方の儀につき、比類これなき手柄せしめ候趣き聞こし召上げられ候、よって褒美として御上下これを下さる、なお身通りの儀は御領分中、百姓惣触れ頭筆頭に差置かれ候こと 寛政11未3月 御所務代 同年4月上旬にいたり徳川幕府より奉書到来せり。喜右衛門端座再拝開き見れば。 防州都濃郡櫛ケ浜 船頭 村井喜右衛門 その方儀、先達て紅毛人沈船浮け方取計らいの始末、松平伊豆守殿御聞き及ばされ、抜群手柄の段御賞美に候、よって右御沙汰の趣き申し聞かせ置く 未4月 奉行所 とありて喜右衛門の名声日に名高く、文化元年享年53才にて黄泉の客となれるが、後世までも単に防州の喜右衛門といえば、誰知らぬ者なき豪の名を得るにいたりたるぞ、誠に同家の面目、同村の名誉と申すべけれ。いわんやまたその子孫今なお血脈あい承け、造酒の業は日に栄えて行くも、先祖の隠徳あるによると知られたり。 表紙へ戻る |