市郎兵衛の力石2
2002.03.15展望台から港を眺める
岡山県小学校国語教育研究会編「岡山の伝説」(日本標準発行)
市郎兵衛の力石 ―笠岡市白石島―
フェリーしらいし丸
白石島(笠岡市)は、海が深く、風待ち・潮待ちにうってつけの良い港として、むかしから、瀬戸内を行き来する多くの船に利用されていた。 今から200年ほどむかし、周防の国三田尻(山口県防府市)の船頭、市郎兵衛の船が、笠岡の沖合いであらしにあい、いつものように白石島の港に難をさけ、風の静まるのを待っていた。
そのあとへ、西国(肥後)の参勤交代の大名を乗せた千石船が、同じように難をさけて、白石島の港へ入り、いかりをおろそうとした。港の中といっても、風がふき潮も動く。大名の船は、市郎兵衛の船により当たりをしてしまった。船のより当たりは、武士のさや当てと同じく、当てたほうに無礼があるとされていた。港の中では、先に入っていた船のほうに権利があり、あとから入った船は、先の船をよけてとまるのがしきたりである。
千石船のほうがわびればよいものを、かえって、じゃまだとかなんだとかもんくを言ったからたまらない。市郎兵衛は腹をたてて、千石船にどなりこんでいった。
ところが、相手は大名の船。
「おまえのほうこそ、じゃまな所へ船をとめていなければ、当たったりはせんわい。」
と、むりおしをする。あげくのはては、大ぜいの家来たちの手をかりた水夫たちに、たたきのめされてしまった。
正しいのは自分のほうなのにと、市郎兵衛はくやしくてたまらない。しかし、あいては大ぜい。けんかをしても勝ちめはない。だが、このまま引きさがっては、市郎兵衛の男が立たない。このうえは神や仏のお力にすがるよりほかに手はない。
開龍寺
市郎兵衛は、さっそく島の開竜寺の大師堂(弘法大師をまつっている)にこもって、
「どうか、あの大名の船に勝てるように、千人力をおさずけください。」
と、夜どおし、一心不乱においのりした。すると、夜明け方、まぼろしのようにお大師さまが現れて、
「おまえの望みをかなえてあげよう。」
とつげた。はっとした市郎兵衛は、
「なむだいし、へんじょうこんごう。ありがとうございます。なむだいし、へんじょうこんごう。」
と、お礼を言って、すっくと立ち上がった。すると、なんだかからだじゅう、もりもりと力があふれる思いがする。
市郎兵衛の力石
喜びいさんで、山をおりかけたところ、来るときにはなかった大きな石が、道をふさいでいる。めかたは200貫(750kg)もあろうかと思われる大石である。ためしにその石をかかえてみると、ふしぎなことに、軽々と頭上高くさし上げることができるではないか。
「ああ、ありがたい。お大師さまが、ほんとうに千人力をさずけてくださったのだ。これならば、あの大名の船に負ける心配はないわい。」
と、港へ引きかえして、また、大名の船に乗りこんでいった。
市郎兵衛の力石2
「やい。きのうの話のかたをつけてもらおう。」
「ばかなやつだ。まだ、こりないとみえる。それ、今度こそやっつけてしまえ。」
市郎兵衛は、とびかかってくる大名の家来や水夫たちを、かたっぱしから投げとばした。そして、千石船の帆柱に手をかけたかと思うと、
「えい、やっ。」
とばかり引っこ抜いて、ぶんぶんふりまわした。当たった者どもはなぎたおされたり、海へふきとばされたり、きのうとはうって変わって、とても手におえない。とびかかる者がいなくなったので、市郎兵衛は、帆柱を船にたたきつけては、船をこわしにかかった。これにはみんなびっくりぎょうてん。とうとう大名が出てきて、
「わしの船が悪かった。これ、このとおりあやまる。」
と手をついて市郎兵衛に頭を下げた。そして、ほうほうのていで、千石船は港を出ていった。
開龍寺参道
その後、市郎兵衛は、このように強い力をさずけてくださったお大師さまに、お礼をしなければと考え、参道に、スギ千本とマツ千本を植えた。そして、ますますお大師さまを信仰して、おいのりをかかさなかったという。
市郎兵衛が、目よりも高くさし上げた大石は、今でも開竜寺の境内に、「市郎兵衛の力石」として、残っており、お礼に植えたスギやマツの何本かが、「千年スギ」「千年マツ」と呼ばれて、今でもおいしげっている。
不動岩
不動岩に額を当てて願い事をするきえもん。驚くことに当日長女の高校合格が叶い、後日次男の大学合格が実現した。恐るべき弘法大師の霊力である。すこぶる感心する一同でした。
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