1994.06.14日刊新周南
●徳山●
市兵衛の墓と対面を
オランダ船引き揚げの
村井喜右衛門が尊敬した力持ち
市兵衛の墓を見る白石島の一行
|
江戸時代の周防の国の力持ちで、岡山県笠岡市沖の白石島で願かけをした末に千人力を得たと言われる山本市兵衛の墓に対面したい、と同島の公民館成人学級の天野與三郎さん(63)ら一行7人が12日、徳山市を訪れ、菩提寺の久米、原江寺(有馬実成住職で櫛浜郷土史会(浅田実会長)の会員たちと再会、熱心に学んだ。 市兵衛は櫛ケ浜に残る古文書によると、藩制時代の寛政11年(1799)に長崎港で大シケのため難破して浸水したオランダ船を独自の工法で引き揚げたことで知られる櫛ケ浜の村井喜右衛門の大叔父。 人並みはずれて小柄で、これを悔しく思った市兵衛は、弘法大師の遺跡があって、願いのかなわないものはないとされた白石島の開龍寺に21日間こもり、願いかなって、750キロもある大石を抱え上げられるようになり、そのお礼に100本の杉を植えたとされ、今も数本が残っているという。 この話は岡山県では「市郎兵衛の力石」と言う伝説で残っており、開龍寺の力石のそばには「周防三田尻ノ船頭一郎兵衛ガ弘法大師の御霊力ニヨリ、コノ大石を持チ上ゲタリ」という看板が掲げられている。 白石島、櫛ケ浜で共通しているのは、大力ぶりを各地で発揮し、大船の帆柱を抜いて振り回したなどの話。 櫛浜郷土史会は、白石島の市郎兵衛は櫛ケ浜の市兵衛と同じ人物と見て、昨年5月、白石島を訪れ、笠岡市の山本稔市史編纂室長や天野さんらの案内で力石などを見学した。
白石島成人学級ら一行を
櫛浜郷土史会が案内
今回は、白石島側から市兵衛の墓をぜひ見学したいという申し出があり、この日の訪問になったもので、櫛ケ浜側の13人の出迎えを受けた一行は原江寺で会員の竹嶋美雅さんから、村井喜右衛門のオランダ船引き揚げと、喜右衛門が大叔父の市兵衛について「おじの名は海内無双の力で天下後世に伝わっており、自分は智計工夫でおじのあとに続こう」と尊敬していたことなどを説明。市兵衛が櫛ケ浜の浦を盛んにした原動力になった人であることを豊富な史料をもとに解説した。
白石島一行(手前)に説明する櫛浜郷土史会
|
このあと、一行は村井家の当主である村井一貫さんの案内で原江寺裏手の村井家の墓所に案内され、市兵衛の墓をはじめ、村井喜右衛門、その子の学者、喜右衛門正豊、孫で宍戸家の三丘徳修館の館長になった嘉右衛門正純の墓を見学、村井さん方で位牌にも対面した。
ただ、白石島の市郎兵衛が「三田尻」としたのは「櫛ケ浜が小さい漁村であることを恥じたため」と言う解釈がされているが、天和年間(1681〜1684)に白石島を訪れたことになっているのに対して、徳山の史料では市兵衛は元禄9年(1696)に誕生したことになって、約30年の差がある。
浅田さんは「同じような時代に力持ちの内容がほぼ同じ人物が2人あたっとは考えられないし、同一人物に違いない」と期待をこめて話し、竹嶋さんも「喜右衛門があれだけ尊敬した市兵衛は櫛ケ浜が盛んになった原動力。大いに顕彰したい」と白石島の一行に史料を紹介しながら話していた。
|