日刊新周南 平成6年(1994)9月14日(水曜日) ●徳山● 櫛ケ浜の恩人、村井七之助翁 当時、すでに写真師も? 竹島さん方で見つかる 明治時代、徳山市櫛ケ浜に防波堤を建設して漁港を完成させ、地元の功労者として、JR櫛ケ浜駅裏の原江寺に大きな頌徳碑が戦後になって建立された村井七之助が、断髪令の出された明治4年から5年もあとの明治9年に写したことが記されたチョンマゲ姿のガラス版写真が見つかった。いっしょにあった翌10年の若者の写真は髪を七三に分けたしゃれた姿で、自宅でこれらの写真を発見した郷土史家の竹島美雅さん(73)=櫛ケ浜中町=は「なぜうちにあるのかわからないが、すでにそのころ、徳山には写真を撮る人がいたのではないか」と推測している。 七之助は嘉永6年(1853)に櫛ケ浜に生まれ、明治17年(1884)に華山組戸長になったあと、市町村制度の発足で太華村が誕生してから初代村長に就任して16年間務め、明治32年には櫛ケ浜防波堤の建設に着手して、困難の末に39年(1906)に完成させ、それまで船をつける場所のなかった漁師の難儀は解消され、その後は台風が来ても大丈夫になった。 竹島さんは、以前から明治9年の文字が入ったガラス版の写真があることは知っていたが、昨年、徳山地方郷土史研究会の総会で市文化振興財団の玉野知之常務理事が徳山の近代化の歴史について講演した際、古い写真が明治以後の歴史研究にとって重要な手がかりになることを説き、これを聞いた竹島さんが持参したもの。 玉野さんは文化会館の西本睦雄技術係長に依頼してガラス版から写真を焼き付ける研究をしてもらった末に成功し、立派に写真にすることができた。 竹島さん方には明治3年に亡くなったとされる子供を抱いている曾祖父や、明治25年から30年にかけて、博多に作られた石のモニュメントが大津島で切り出されて、博多で完成するまでの写真が残っており、玉野さんも、以前、遠石にあったお茶屋の芸者たちが「舞車で写真を撮ってきた」と話していたことを記憶していた古老の話を聞いていること、大津島の写真に「鶴寿堂」の印鑑が押してあることなどから、かなり古い時代から徳山に写真屋があったのではないか、と考察している。 「日刊新周南」記事おわり 村井七之助翁頌徳碑碑文(櫛ケ浜・原江寺) 故村井翁ハ温厚篤実ノ士、明治ノ初頭戸長又ハ村司ニ就キ勤続20有5年ナリ、太華村創草ノ大業ヲ遂ゲソノ治蹟顕著ナリ、ナカンズク漁村櫛ケ浜ニ波止メノ新設ヲ計リ多大ノ困苦ニ抵抗シ遂ニ一大防波堤ヲ築造モッテ今日ニ及ブ 翁ノ一生終始高風清節優々自如、大正9年4月逝ク齢68、波止メ成リテ星霜将ニ40余年誰カ往時ヲ追懐シソノ徳ヲ慕ハザルモノアランヤ、茲ニ櫛ケ浜漁業会ソノ他有志者相謀リ、頌徳碑ヲ建立シテ翁ノ遺功余烈ヲ永久ニ表彰敬仰ス 昭和22年建立 田中華陵撰並書
(註)村井七之助は喜右衛門の弟亀次郎の4代目である。
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