

1996(平成8)年6月徳山市議会一般質問
香焼町の郷土資料によると、当時、香焼島ではまだ漁業があまり行われていなかったようですが、喜右衛門が島民に漁業を奨励したように書かれています。今から200年前のことです。オランダから来た船が銅や樟脳を積み込んで出航を待っていたところ、突然の暴風雨で船は座礁してしまいました。船底から水が入り、船はついに沈没してしまいました。
長崎奉行はこの船を引揚げるように、土地の者に命じました。これに応じた二人が様々な工夫を重ねたようですが、とうとう引揚げに失敗しました。ちょうどそのときに、仕事で長崎に来ていた喜右衛門が船の引揚げを申し出て居りましたところ、他に誰も引揚げてくれる者がいなかったので、奉行は喜右衛門に頼みました。当時150隻もの船を集め、600人もの人を動員して、2ケ月にわたって、さまざまな資材を準備し、智恵と技で見事引揚げに成功したという話です。
もちろん長崎奉行からも、萩藩や幕府からも感状が送られ、その文書は現在も子孫の方が大切に保存されているようです。
当日小ホールは超満員の人で、片桐先生のオランダ商館日誌と日本に残っている資料を比較検討されながらの、喜右衛門の活躍した話に聞き入りました。
当時は村井喜右衛門さんだけでなく、その兄弟や漁業に従事した人達、船大工の頭領として香焼島に渡った笠戸屋徳兵衛という人や、そこで一緒に船大工として働いていた人など、大変たくさんの人達が香焼島に移り住んでいたようです。また、徳山のみかげ石で造ったのではないかと云われている、石灯籠やお地蔵様、墓碑などもたくさん現存しているようです。地元の民話に「お地蔵様のおつげ」という物語があるそうですが、その中にでてくる“故郷恋しや、わがふるさとの、しばのおりえも、懐かしや”という歌があります。喜右衛門と共に島に来て漁業に従事していたたくさんの人達、又、造船所で働いていた人達が、異国に来て遠いふるさとを思いながら、望郷の念で切々と読んだ歌だと云い伝えられています。
香焼町郷土誌によると、1780年頃には防州と香焼島とは交易していたと伝えられています。ふるさとを思いながら、二度とふるさとへ帰ることなく香焼島で眠っている先人達のことを思いますに、その人々達の願いをかなえるべく、徳山と大変ゆかりの深い香焼町と姉妹縁組を結び、文化や教育、産業などの交流を図っていくというお気持ちはありませんでしょうか。
香焼町には現在もたくさんの子孫が活躍されていると聞きます。町の一つの集落はほとんど元は櫛ケ浜出身の人達ばかりで作られた村ではないかと云われている所もあると聞いております。是非とも前向きに考えていただきたいと思います。現在美術博物館の中の常設展示場に、村井家に伝わる貴重な資料を常設して、市民や他市の人々に広く紹介していかれるお気持はありませんでしょうか。
それからその次に、村井喜右衛門のお話で長崎の香焼町と姉妹縁組ができないかというようなことでありました。個人的なことを申し上げて恐縮ですが、村井家と私のところはちょっと親戚関係にもなりますので、私も昔から村井喜右衛門さんという立派な人がおられたということは知っておりましたけれども、この長崎の香焼町でこれほど村井喜右衛門さんを尊敬し、そして200年たってまだ毎年毎年いろいろな行事やイベントをやっておられるということは知らなかったわけでございますけれども、今回、この徳山のいろいろ心配していただく皆さん方が資料を集められて、今、お話がありましたように、中央図書館で先日、展示会が催されたわけでございますけれども、そのときにも香焼町からはるばる9名の方がおいでになったというお話も聞いておるところでございます。
そして、この7月にはことしも香焼町で町を挙げて大きなイベントがあり、村井喜右衛門展が開催されるということで、新しい村井家の資料などもそのときに展示されるというお話も聞いておるところでございます。
こちらからもそちらにまた訪問される方もあるかと思いますけれども、いろいろなイベントを通じて交流を深めていくということは大変有意義なことであろうと思いますし、今回、初めて展示会がありましたけれども、こういう人がおられたのかということで感銘を受けられた市民の方も多いようでございますから、遺品なり関連の資料を保管をして、展示をする努力もしていかなければならないというふうに思いますので、今すぐ姉妹縁組というのはどういう形にしたらいいか、よくわかりませんし、もう少しいろいろなイベントを通じて交流を深めていくということが当面は大切なことではなかろうかというふうに思っておりますので、ひとつよろしくお願いを申し上げたいと思います。