余録

2001.03.08mainichi余録
余録 沈没したえひめ丸の船体に2枚の鉄板をぐるりと帯のように回し、ワイヤでつり上げる。オランダのサルベージ会社は日米専門家会合にこんな引揚げ方法を提案したそうだ。
 今後、日米双方が細部を詰め、米政府が応諾すれば、オランダ案をもとに引揚げが進むことになる。オランダと引揚げで「よむカステラ」4号(1998年)で読んだ「鎖国下の長崎出島」を思い出した。これはカステラを通して、歴史や文化を考える、長崎市の松翁軒発行の雑誌だ。
 青山学院大学の片桐一男教授によると、寛政10(1798)年、オランダ東インド会社のエリザ号が出島から出港する際、嵐にあって船底を破損、沈没した。この船、実は米国から借りた米国船だった。何としても船を引揚げねばならない。
 長崎奉行は高札を立てて引揚げ請負人を募った。唐人、オランダ人はじめ何人かが挑戦したがことごとく失敗した。それでは、と名乗りを上げたのが防州(現在の山口県)の村井喜右衛門だった。山口特産の御影石を積んで長崎へ行き、イワシを買い付け、金肥として大阪で売る貿易商だ。
 日米、オランダの膨大な資料をもとに片桐教授がまとめた引揚げ方法はこうだ。オランダ人から借りた大綱2筋で沈船の船腹を二重にまく。その大綱へ滑車を仕掛ける。400石積みの船を主体に100隻で沈船を囲み、それらの船の上から数百人がかりで巻き上げる。延べ1万3000人が作業に従事する大プロジェクトだった。
 エリザ号の引揚げは成功した。200年前の日本の技術は大したものだった。費用は膨大だったが、村井喜右衛門はすべて自分で負担した。「その代わり、褒美に記念の品をもらいたいと、オランダから砂糖20俵と14本のオランダフラスコをもらっています」と片桐教授は語っている。

仕掛け
阿蘭陀沈船浮方惣仕掛之図

村井喜右衛門へ