蛮喜和合楽 上

長崎絵図1802年
そもそもオランダ人来朝は、寛永18年辛巳より御免蒙り奉り、年々渉来連綿たり。例の通り去る午の6月下旬入津、追々交易整ひ、同10月17日暮前に長崎のオランダ商館を打ち立ち、神崎脇へ出船す。在留オランダ人同所へ見送り、祝盃おさまりオランダ商館へ帰る。
その夜順風ゆへ、程なく出帆用意にて釣り碇(長く延ばしあり碇綱をちぢむるなり)を致し、暫時休息の折節俄に風烈しく吹き来たり、波荒く船を揺り上げ揺り下ろし、高鉾脇唐人瀬(一名隠れ瀬昔唐船ここにて沈溺すよって名とす)へ乗り上げ、船底を磨り破り、垢潜ること湧くがごとし。雨しきりに、浪高く、狂風起り、今やこの船さかさまに覆らんとす。船中の驚駭(きょうがい)騒乱沸湯のごとし。
絵図上

され共大洋渉渡に熟せしオランダ人、即時に大帆柱3本、斧をもって打ち切り、ポンプ(垢をくり出す道具なり)2挺にて船中水夫惣がかりにて死力を尽してはたらけども、しきりに湧き起る垢に精力疲れ防ぎ兼ねて見へしところ、この船に居る崑崙(くろぼう・名ウウノス、古カピタン召し遣い、およそ7年在留しこの度帰国す)カピタン(船頭のこと)へ告ぐるは、その身一人番船へ願ひ、長崎オランダ商館へ注進仕り、加勢を請ひうけ来らんと云ふ。カピタン悦び、バッテイラ(伝馬船のこと)を卸し、片時も急ぎ上陸せよと聞くとひとしく、ウウノス箭を射るごとく番船へ漕ぎ付け、右の変事を告ぐる。
番船役人、町使い成田繁次・杉山勘四郎、飛船を仕立て、右ウウノスを召し連れ、大波戸(長崎上り場、海程およそ2里)より上陸し、オランダ商館表門をしきりに叩き、急変に付きオランダ商館員(ウィルレム・レオポルド・ラス)へ俄の擾乱を訴う。すぐに開門、その夜詰番乙名横瀬九左衛門・通詞本木庄左衛門両人へこのよし告げ、ラスへ知らすやいなや、小使い飛ぶがごとくに一統通詞へ触れ知らす。
一瞬のまに駈け付ける通詞岩瀬弥十郎・塩谷庄次郎・品川作大夫、此の3人に(名)レツテキ(名)ポヘット等の両オランダ人、崑崙ウウノス鯨船に飛びのりて、大波戸より艫増しにて押し切り押し切り難船場へ馳せ寄する。暴風高波甚雨烈しき危急、水夫オランダ人命限りの働きなり。
オランダ商館より来るオランダ人へカピタン告すは、レツテキばかり難船に残し、ポヘットは再び上陸し、急ぎ荷漕ぎ船を数艘御願い申し受け差し向かい候様に申し付け、直ちにポヘット右3人通詞の内岩瀬弥十郎召し連れ、御役所附き三原市十郎付き添い引き返す。なほ又成田・塩谷・品川3人申し談じ、木鉢浦・小瀬戸浦辺の漁船借り請け、急用助力たるべしと見送り番所へ相届け、鯨船頭へ申し付け、それより難船場へ漕ぎ付けるに、(海陸取締方)竹内弥十郎(隠密方)松本忠次(盗賊方)卯野熊之丞3人、水主召し連れ加勢粉骨尽し働く内、塩谷・品川もオランダ船に乗り込み、火水に成りて力を合すといへども、防ぎ難く、荷漕ぎ船加勢のこと、先刻より下役をもって浦々えその手当てあることゆへ、この助勢あらば防ぎ果せんものをと待つうち手に余り、今はかくよと見へたるところへ、追々大小の船漕ぎ付け漕ぎ付け、難船に飛び込みて荷物を船へ移し、数艘の引き船右往左往に木鉢浦さして引き寄する。
引揚絵図上長崎
不時の騒乱火急の防禦、湧き上がる垢力に及ばず、浪に揺られて船は臼搗くがごとくなれども、先に帆柱を打ち切りしゆへ覆ることはなけれども、今沈むべく見へにける。御奉行所より御検使熊谷与十郎殿長谷川武左衛門殿其の外長崎諸役人通詞方とも、夜中に神崎迄飛船にて漕ぎ付けれども、風波つよく難船場へより付きかね、各朝六ツ時前にオランダ船え近寄り、数艘の引き船怠慢なく18日八ツ時に木鉢浦土生田濱へ引き寄する。まず碇を入れ、人数御改め、上下90人余無事にて着岸。さて御奉行所より御下知にて、当時長崎在留の船は左に記す。
大坂小新艘(23反帆900石積)   加州清徳丸(15反帆350石積)
加州幸吉丸(15反帆430石積) 小豆島栄宝丸(7反帆220石積)
長州大黒丸(5反帆130石積)   大村大黒丸(7反帆50石積)
大村久米丸(11反帆120石積)   大村宮市丸(9反帆70石積)
島原住福丸(15反帆300石積)
合9艘
右の船々へオランダ船荷物積み分け、なほ又90人余オランダ人残らず乗りうつり、顧みれば船底へ潜る垢、船中に充満して、19日朝辰の刻、ついに深泥の底へ沈み入りける。素よりこの土生田と云ふは、至って深き所にて、海底より1丈3尺余りの泥海なり。
オランダ船大きさ、
○長さ 23間       ○人数 90人余
○幅  6間        ○柱長さ 14丈余
○高さ 6間        ○籏棹 3丈余
○石炮(いしひや)36挺 ○帆数 18片
○量目(おもさ)250万斤
以上

絵図下b絵図下a
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