日刊新周南1996(平成8)05.17(金)第12929号
●徳山●
藩制期にオランダ船引き揚げ
ヨーロッパに鳴り響いた“海の勇者”
21日〜村井喜右衛門展
25日には片桐青学大教授が講演
約200年前の寛政年間、長崎湾口で沈没したオランダ船を独力で引き揚げ、ヨーロッパにまで名をとどろかせた徳山市櫛ケ浜の村井喜右衛門を紹介する展覧会が21日から30日まで市中央図書館で開かれる。また25日午後3時から市民館小ホールで、20年以上も喜右衛門の研究を続けている青山学院大の片桐一男教授の講演会も開かれることになり、期待されている。
片桐さんの調査によると藩制時代の寛政10年(1798)10月、オランダが米国からチャーターしていたエライザ号(160トン)が長崎の神崎沖でバタビアに向かうために風待ちをしていた際、突然の暴風雨で、輸出銅や樟脳を積んだまま座礁してしまい、浸水して浜に引き寄せられたが、間もなく海底へ沈んでしまった。
この船はオランダが国際情勢の嵐の中で東洋に船を派遣できないためバタビア政庁が雇ったもの。国際信義の上からも何としても引き揚げねばならず、長崎奉行に願い出た。当時、喜右衛門は一年の半分は長崎湾口の香焼島で仮屋を作ってイワシの買い付けにあたっていたが、独力で引き揚げを申し出た。

引き揚げの方法は150隻の船と600人を動員、しかもその費用は全額、喜右衛門が負担するというもの。二ヵ月間にわたって準備し、大山形と滑車を組み合わせ、潮の干満を利用して見事に成功させた。当日、幕府からとくに許可された日の丸の小旗をはためかせ、多くの人と船を指導する姿は、引き揚げ成功から半年もたたないうちに木版の「蛮喜和合楽」にもなったほど。
オランダからはジン・ボトル14本が、翌年には貴重品の白砂糖20俵も贈られた。長崎奉行も銀30枚を贈り、櫛ケ浜に帰ってからは花岡勘場を通じて萩藩に報告、萩藩からは名字帯刀を許され、櫛ケ浜の領主だった宍戸家、さらに幕府の老中松平伊豆守からも褒状が贈られ、オランダを通じて世界各国にも伝えられた。
今回の展覧会は同図書館と徳山地方郷土史研究会の共催。出品される資料は100点。長崎県立図書館から引き揚げの絵図の写真パネル7点、香焼町立図書館からは同町に残る喜右衛門の弟の亀次郎や音右衛門の墓の写真、高校生が作った紙芝居もある。
村井家からも喜右衛門の肖像画、当時の引き揚げの模様を描いた絵図や古文書、褒状など貴重な資料、喜右衛門が書いた扇子、明治になってから村井家に来た著名な人々や海外の研究者の手紙類が展示され、喜右衛門が遠石八幡宮に寄進した灯ろうも写真で紹介される。同様の灯ろうは長崎でも寄進され、両地域のつながりを感じさせる。そのほかに喜右衛門が登場する図書、日刊新周南のスクラップも展示される。
講演する片桐教授は幕末の阿蘭陀通詞など日蘭文化交渉史・蘭学史が専門で、オランダでも調査した際に喜右衛門についてのオランダ側の資料も調べたことがある。
演題は「櫛ケ浜の村井喜右衛門、オランダへ鳴りひびく―沈船引き揚げで見せた技術(わざ)・心意気」。聴講は無料で、問い合わせは同図書館(0834・22・8683)へ。

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