蛮喜和合楽 中
抑(そもそも)此の蘭船の造り方は、挙く(ことごとく)銅鉄をもって巻き詰めし製なるゆへ、尖き(するどき)瀬へ乗り上ぐるといへども、側底など裂ける事なし。瀬は砕けても船は破れず、されども船底磨れ削れしゆへ、垢潜り入る纔(わずか)といへども、大洋激浪ひまなく、ついに垢船中に充満せし也。船の造り丈夫なる事は盤石のごとし。此の船新造よりおよそ百廿年余と云々。
十月十九日、蘭館在留ラス其の外召し連れ見分に出る。御代官始め諸役人方日々御見廻り、其の上木鉢濱辺に仮屋を建て、部屋々々しつらひ、沖かかり通詞方役割り仰せ付けられ人々、
午年番 石橋助左衛門 横山勝之丞
未年番 加福安治郎 今村才右衛門
右難船に付沖掛り役
岩瀬弥十郎
名村多吉郎 末永甚左衛門
(未正月献上物付き添い参府) 三島良吉
代わり 堀伝四郎
石橋助左衛門 塩谷正次郎
本木庄左衛門 品川作大夫
今村金兵衛 松村安太郎
馬場為八郎 楢林弥市郎
茂伝之進 川原太十郎
馬田源十郎 稲部玄八
木鉢仮屋入口、長崎蘭館同様諸役人さぐり番迄日々相詰め厳重に仰せ渡され、夫れより沈み船上荷残らず取り上ぐるといへども、御用銅数万斤一斤も上ぐる事相成らず、カピタン第一に相歎き、御奉行所へ御願ひ申し上げ候のところ、尤もに思し召され、則御手形出る。
紅毛船難船に及び、木鉢浦浜手に引き寄せ之有り、垢多く差し込み、過半沈み船に相成り、殊に下積銅も多く之有り候、右差し水繰り上げ、銅取り揚げ方等弁利の手段存じ寄りの者は、申し出ずべし。
十月廿一日 出島乙名
紅毛通詞
右御手形出候上、猶又浜手水練の者共に仰せ付けられ、大勢取りかかり引上げ方仰せ付けられ候へども、取上げ仕方行き届かず、其の上厳寒の烈しき時に向かひ、人夫煩らひ、気丈に水底に潜り入りし者は、溺死なども多くて此の一挙(いちらく)は中々むつかしき模様なれば、御奉行所にも御心配遊ばされ、御仁恵の御沙汰いろいろ御評義あらせらる。かくの如き事ゆへ、此の御下知を仕果せなば、恐れながら上への御奉公也と、器量勝れし智巧勘弁の人々言上し、御免蒙り精力工夫百計を尽くせども、其の疲労のみにて労して功なく徒(いたずら)事となり、空しく月日をうつすぞ詮方なき事どもなり。
ここに防州都濃郡櫛ケ浜村に住居漁仕喜右衛門と云ふ者、年来干鰯を商売し、肥前香焼島に漁場を構へ数年往還し、近浦近島々の網子共を数多引き随へ、大勢の者撫育に従ひ居りけるが、未の正月、伺ひ書を通詞方へ差し出す、
沖紅毛船浮き船の儀、私存じ寄り之有り候に付、揚げ方仕り度き旨追々申し立て候処、此の度各様より御上え御願ひ立て下され候に付、諸雑費入用等の儀は如何相心得候哉の段、御尋ね下され承知仕り候、右諸雑費入用銀高等、追って申し立て候所存毛頭これなく受け用仕る可く候、勿論私手内にて浮かし方に相成らず節は、謝儀たり共決して請け申し間敷く候、此の段御尋ね旁ら書き付けをもって申し上げ候、以上
未正月 村井喜右衛門
加福安治郎殿
石橋助左衛門殿
今村才右衛門殿
右書き付けをもって御願ひ申し上げし処、浮かし方御免仰せ付けられ、未の正月十七日より手配りし、同廿九日午の刻勘弁工夫をもって、さばかりむつかしき沈み船を積み入り銅ともに無事引き揚げ果せたり。(此の仕方引き上げ道具等絵図下のタンレン抄に有り)風順もよく帆巻き暫時に、土生田より木鉢仮屋の浜辺、カピタン望みの場所へ引き付けたり。其の手段妙策未然の工夫、挙く(ことごとく)的中せし事万人驚嘆し奇意の思ひをなす。
御奉行はじめ奉り長崎一統の悦び、別して蘭人とても人力に及ばぬ事、天災是非なしと思ひ切りたる処に、此の趣なれば、誠死したる人の蘇生せし如く、手の舞足の踏む所を忘れての悦び理(ことわり)なり。扨(さて)此の一件江府へ御宿次にて仰達せられ、引き上げ方図面等御注進あらせらる。且つ又右の喜右衛門へ御奉行所より下し賜る御褒賞、
防州櫛ケ浜 船頭 喜右衛門
其の方儀、沖紅毛船浮かし方の儀紅毛人より相頼み候の処、差しはまり出精致し、殊に自分入用をもって、早速浮き船に相成り、修理にも取り掛かり候段、誠に抜群の手柄、紅毛人は申すに及ばず、当所一統安心満足の事に候。之に依り褒美として銀三十枚之を取らせる。
未二月
此の如く仰せ付けられ、此の事九州・中国・四国鼓動して感賞せり。
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