蛮喜鍛煉書5
村井喜右衛門御褒美のこと
寛政11未2月21日長崎立山御屋舗より召し出され候に付き罷り出で候ところ、御役人方御付き添いにて、御前近く罷り出で拝礼仕り居り候ところ、御奉行様御直々御書御読み渡し遊ばされ、あはせて御銀子30枚仰せ付けられ頂戴仕り候。右御書き付けの文言左の通り
防州都濃郡櫛ケ浜
村井喜右衛門
その方儀、沖オランダ沈み船浮かし方の儀、差しはまり出精致し、殊に自分入用をもって早速浮き船に
相成り、修理にも取り懸り候段、誠に抜群の手柄、オランダ人は申すに及ばずなほ当所一統安心満足の
ことに候。よって褒美として銀子30枚これを取らせ候。
未の2月
同日裃着用にて御礼申し上げ候こと。
褒美として銀30枚取らせる書状 |
同22日オランダ人より進物としてフラスコ徳利14、何れも酒入りこれあり候こと。もっとも役人より取り次ぎ遣はされ候ゆへ受納のこと。
同24日大通詞4人喜右衛門へ浮き方歓びとして、料理1汁5菜にして御馳走これあり。その夜すぐに丸山へ遊びに行く。女郎・天ちん・芸子30人余呼び出し、一昼夜大騒ぎ。その後かつへ歌・いたこその外はやり歌につくり、長崎地中浦々まで大はやりとなり。
右一件詳しく畳3枚敷き程の大絵図にして東都へのぼり候ところ、絵図にては分かりかね候間雛形にて差し出し申すべし候との御ことにて早速喜右衛門へ申し遣わされ候に付き、大工10人も懸り、一昼夜に雛形拵え、大箱に入れ、立山御屋敷へ差し出し候ところ、早のはやにて東都へのぼり、公方様御覧遊ばされ候上御三家・御三卿様方へ御目に懸けられ候上にて、今に御宝蔵入りこれあり。そのときの大絵図桂川甫賢蘭学書画方の先生の家に拝領してこれありとかや。
右の通り喜右衛門国元御用所へ朝比奈河内守様より申し参り候ところ、則ち国元御賞美左の通り
覚
都濃郡櫛ケ浜浦
宍戸美濃守殿知行所
百姓 喜右衛門
萩表からの褒状 |
|
右去る秋帰帆のオランダ船長崎沖浦上村木鉢郷にて沈み船に相成り候に付き浮かし方の儀、長崎御奉行所において種々仰せ付けられもこれあり候えども浮かし方出来かね候ところ、その砌り喜右衛門ことはかの地商売方に付き参り合せ候て、オランダ人より相頼み、喜右衛門心遣いをもって浮かし方相成り、オランダ人は申すに及ばず長崎表一統安心満足の由。これにより御奉行朝比奈河内守殿御役所に呼び召され、御褒美として銀30枚下され候由。河内守殿よりかの者抜群手柄仕り候段御知らせ申し来り候。肝要の場所において、比類なき手柄をせしめ神妙の至りに候。これにより格別の御沙汰をもって永代名字、永代帯刀とも差し免ぜられ候条、この段御申し渡しあるべく候、已上
寛政11未
3月 矢嶋作右衛門 (判)
山崎新八殿
右の趣き、花岡勘場より御呼び出し御沙汰相成り、その節喜右衛門親子旅行に付き、浜田福松代勤。喜右衛門へは飛脚をもって相知らせける。
村井喜右衛門
その方儀、今般長崎においてオランダ沈み船浮かし方の儀に付き、比類なき手柄をせしめ候趣き、聞こし召し上げられ候。よって褒美として御裃これを下さる。なお身通りの儀は御領分百姓惣筆頭差し置かれ候こと
寛政11未3月
右の通り三丘御蔵元より御沙汰相成り候。これも飛脚をもって相知らせける。
村井喜右衛門この度オランダ沈み船浮き方に相成り候。誠に鍛練工夫の次第絵図雛形に詳しく東都早飛脚早人夫にてのぼりければ、公方様・御三卿様・御老中その外御役人様方まで御覧遊ばされ候上よろしく沙汰すべしとの御ことにて、江府より御墨付き左の通り御奉行朝比奈河内守様直に御読み渡し候こと
松平伊豆守からの褒状 |
防州都濃郡櫛ケ浜
村井喜右衛門
その方儀先達てオランダ沈み船浮かし方取り計らいの始末、松平伊豆守殿御聞き及ばせられ、抜群の手柄の段御賞美候。よって御沙汰の旨申し聞かせ置く
未4月
銅積み出航 |
一、その後村井喜右衛門帰国の砌り、萩表より御呼び出し御沙汰相成り、早速出萩仕り候て、御屋舗に逗留仰せ付けられ御目見得の席にて、御上様より御直々に御言葉懸りしとなり。
翌年オランダ人渡海の節、土産として太白20俵尤も代銭にして正銀13貫500目長崎西御屋舗より御立て下げ相成り、その節倅喜七郎請け取りに参りける。
おわり
表紙へ